昭和51年05月27日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
世に三宝様を踏むなと此処では三宝様というのを、大切なものと又は穀物の意と、また今日は三宝様というのをおかげの頂けれる心、そのおかげの頂けれるおかげが頂きやすい心。そういう心を頂くということ、それを例えば踏み付けにしてしまうと言う様な事では、おかげは頂かれない。今日は皆さんに、本当に金光教は偉大だなと、私共が拝ませて頂いておる神様は、本当に偉大な神様だなと言う様な事を、分かって頂きたいと思いますけれどもね。もう私はどういう人でもお取次ぎを頂いて。
お願いをして信心をすればおかげが頂かれるということです。どういう例えばだらしのない人であろうが、どんな悪人であろうが、金光大神のそのうお取次ぎに言ってすれば、どういう人でも助かる事が出来る。けれども自分の様な者ではおかげは頂くめと、思うその心がおかげを頂かんのです。だからそういうおかげの頂けれる心を、お互いが頂いておりながら、そういう心をいわば自分で踏みにじるように、もう自分はつまらん。もう自分のごたるもんはとてもおかげは頂きるめという程。
私は一番大事なものを踏み付けたり、お粗末にする事はないと思うです。私今朝から長い夢を頂いておりましたが、ある女の女性の方の、いうならば女の一生とでも申しまょうか、だから必ず女ということでなくても良い、男の一生と言うても良いのです。その人の五つ六つという七つ八つ位なところから現在までの、ずっとあのうお芝居のように頂きました。この人はもう子供の時から男好きをする。もう男に泣かされ、男を泣かしてきた生涯であるね。
いうならば好きな人に裏切られたり、または自分が嫌いといやぁその男を、もう無下もなし捨てて行ったり、もうそれももうそれこそお芝居の一座一座にその男が変わっておる。いうならば男を泣かせ、いわば男に泣きしてきた一生だと言う訳なんです。その人はね、お道の信心によって助けられていく状態を頂きます。親鸞聖人様の御信心を詳しくは知りませんけれども、あの当時に真宗仏教が、もうそれこそ日本中にそのう広がって行ったというのは、難しい事を言わなかった訳です。
もう其の身其のまま救い取らせて下さるのが仏様だと説いたんです。もう例えば猟師とか、狩人なんかと言った様な殺傷な仕事をする者は、もう永劫救われないと自分で決めておる。はしたない仕事なんかを携わっておる人達なんかは、もういよいよ助からないものと自分で決めておる、そうではない。どういう人でもどんな人でも、南無阿弥陀仏を唱えるところには、皆んなが助けられるんだと簡単に説いた訳です。ですからもう大衆がそれにわぁって集まって来る様に真宗が広がったんです。
けれども話を聞きますとなるほど助かるはずだと、私は南無阿弥陀仏という意味は分かりませんけれども、言わば仏に南無するということは、自分が空しゅうなるということなんです。南無阿弥陀仏を唱えれば、どんなに罪業の深い人でも、助かられるんだと思い込ませるわけです。自分も助かる事が出来るんだと、いよいよ南無阿弥陀仏を唱える事になる訳です。自分の様な者でも助かるんだと言う訳です。金光様の御信心もやっぱりそうだと思います。
これは特に取次ぎ者としてこれは、本当に私は改めて目が開いた思いがするんですけども、あの人はあそこばいっちょ改まるとおかげ頂くばってん、という思い方をして取次ぎ者が取次いだらもうおかげ頂かんです。それを例えばそこも、そういうところも神様に助かられる受けものというのは、誰でも持っているんだということ。または自分自身にもです、改まろうと思うけれども改まる事が出来ない。
例えばならおかげを受けた人がね、おかげを受けた人が受ければ受ける程です、例えばなら金光大神が、生き神様と言われるようになられてからでも、私は無学の百姓である、土掘りだと言っておられるように、私がおかげを頂いても頂いてもです、やはり私は一商人あきんどであってです、なら例えば私が今日おかげを受けておるというなら、私のごたる男ですらも、この様におかげを頂いとるんだから、皆んなが頂けん筈はないと私は思うです、皆さんの一人一人の場合。
私位な者でもおかげを頂いておるんだから、皆んながおかげを受けられん筈がない、問題は銘々がです、自分の様な者がおかげを頂けん、自分の様な者はもう業が深いからおかげは頂ききらんと、思う決め付ける心がおかげにならんのだと。まぁいうならばら先日お夢に頂いた人の一生というものは、普通から言うならばだらしのない一生であったということになるかも知れません。けれどもその人がひとたび、ならお道の信心に入らせて頂く事によってです、助かりだした。
いうなら持って生まれた時からの生まれつきの様な性根と言うものが、そんなに簡単に変る筈はない、その身そのままが救い助けられるのだ。あの人は仏様の様な人神様のような人じゃというても助からない。おかげを受けられないという人が沢山ある。あの人があんな人が、あんなくせの悪か人が、あんな悪い事をする人が、金光様でおかげ頂きよるという例が沢山またある。それがいよいよです、なら信心によって自分自身が分からせて頂ける時にです、いうなら屑の子の自覚が出来て来るです。
自分の様な者がと分かるんだけれども、自分の様な者でも金光大神のお徳にお縋りしてお願いをすれば、おかげが頂けれるという確信が生まれて来る。だから自分の様な者がと分かれば分かる程ここんところが、私はだんだん」人物が出来て来るから、自分の様な者がと言う事がです、いよいよ謙虚にならざるを得ない事になって来るのじゃないでしょうか。問題は信心をさせて頂くと言う事。しかも一生が修行だと言う事。
もう信心とは本心の玉を磨くものだと、信心とは日々の改まりが第一だと言う事を分からせて頂くと言う事。いわゆる真宗仏教の救いがです、その身そのままが助かられるというもの。南無阿弥陀仏を唱えればというのです。そして自分を空しゅうしていくということにだんだん精進する、自分が空しゅうなった時には、その業も一緒に消えてなくなっておる。そりゃあ生まれつき几帳面な人もありゃ、だらしない人もある。赤の人もおりゃあ青の人もおる。
だから赤の人は助からん、青の人は助からんと言うておったらです、難儀な氏子救済ということにはならない。むしろ難儀なものであればある程が助かられるんだ。親鸞が言っておるように、善人ですら助かっておるのだから、悪人に於いておやということを言っております。悪人は尚更助かるんだと言う訳です。けれどもその悪人が悪人で終わったんではつまらん。その悪人が南無阿弥陀仏を唱える、いうならば御仏の救いを求めるという姿勢になれば、その身そのまま悪人は悪人のままで助かるんだと。
業の深いものは業の深いなりに助かって行く事が出来るのです。自分の様な者が助かる。いうならば自分の様な者でも救いとって下さる、助けて下さると一心に称号を唱える。自分の様な屑の子でも、神様が屑の子程可愛いと仰せられる、その御心情にお縋りをするという気になって。いよいよ本心の玉を磨くものだ信心とは日々の改まりが第一と、それが磨けても磨けなくてもそうだと思い込んでです、倒れ転びしながらでもそれをおかげ頂いていく気になれば、もう自分は救われた助かったと言う事になって来るのです。
改まってしまわなければ、磨ききってしまわなければということではない。それがね一生が修行と仰るから、それが一生そういう心の状態にならせて頂くということです。こす気のある人は、いつまでたってもこす気があるです。女ぐせの悪い人はもう年寄りになったっちゃ女くせの悪いです。そして自分の業に辟々とするだろうと思います。だからそこに自分が屑の子であるという自覚が出来る。けれども自分の様な者でも、助かられるんだという信心。
だからそういう人達が、自分のごたるもんはおかげ頂ききらんという、そのおかげ頂ききらんというその心が、三宝様を踏み付ける事になるんです。いよいよ目がつぶれてしまうんです。自分の様な者でも助けて頂けるというならば、南無阿弥陀仏に帰依するように、生神金光大神、いうなら天地書附のいうならば御神意に添わせて頂く、生神金光大神天地金乃神に一生懸命おかげは和賀心にありと。ところが実際和賀心じゃない、その和賀心ではないものがです、どうぞ和賀心にならせて下さいと願うということなんです。
一心に縋れということ。願ったから和賀心になるということじゃないけれども、もう信心はここに極まったんだと、してそれを願って行くということ。そこに願って行くと願って行かないという違いが、天地ほどの違いになってくる、信心があるものとないものが、親のある子とない子ほどの違いになってくるのはそう言う訳です。なら信心を頂いておっても、なら自分の様な者が自分の様な者が、とてもおかげを頂ききらんと思うたら、おかげは頂ききらんです。
自分の様な者でも神様は助けて下さるんだと、ただ天地書附を唱えさせてもろうて、そしてその願い切である。本当に和賀心になりたいと一心に願っていく。そういう一心に願っていく姿勢に神様が感応なします、おかげを下さるのだ。和賀心になってしまわんとおかげはやらんというのでは決してないのだと。私は親鸞が言っておるその南無阿弥陀仏を唱えればどういう罪業の深い者でも、どんなに悪人であってもです、南無阿弥陀仏を唱えるならばそこにどういう難儀なものであってもです。
その身そのままが救い助けられる道がそこから開けてくるんです。私今日はそこんところを本当に思わせて頂いたんですけれどもね。それとその方の事を、今日のそのいわゆる女の一生と言う様なお知らせのような感じで、ずうっと男に泣き男に泣かされしてきた一生ですよね。その人を頂いたら大きな瓶なんですよ、その大きな瓶がこう瓶があるが尻が小さいんです。いうなら尻が軽いというわけです。だからそれがこれに水を入れてやったら倒れそうな感じがするです。
あんた一丁そこば改まらなければおかげは頂かれんよと、例えば言うたり思うたりではいけない。これが真っ直ぐなところに置かれたらです、お水をここに例えばここに入れても動きゃせんです。例え下の方が小まかっても、それが下の方がこうやってちっと、真っすぐでないところに置くからおかげば頂かれんとです。それがです自分のごたる業の深い者の、自分のごたる言うならばだらしない生活をして来たものが、おかげは頂くめえと言う様なものを感じておる事が、本当の考え方ではないから。
こう斜めになったところにその瓶がおいてある。だから神様これに水を入れてやったっちゃひっくりかえるから、入れてやんなさらんだけの事、真っすぐいとこに置きゃぁ例え尻が軽かっても、尻が小まかっても真っすぐい上からお恵みを、ここに頂きゃあこれに一杯のお水が頂かれるんだ。今日はだからその真っすぐい考え方、本当の考え方と言う事です。自分の心の中にです、自分のごたるこす気のあるとはとてもいくめと、勿論それが私しゃその尻が軽かとかそのうろくそなかとか、それで良いというのじゃない。
けれどもその持って生まれたいうならば、もう性格と言った様なものをです、もう子供の時からその性根がずうっとある人だということなんです。それを私はどんなに罪業の深い人であっても、その身そのままが助かられるということをです、南無阿弥陀仏によって助かる、いよいよ信心によっていよいよ自分を空しゅうしていこうという。一心に和賀心を願っていくという生き方。信心とは一生が修行だということを思い込ませてもらい、そして出来んなりにも改まる事第一。
本心の玉を磨く事だけにに焦点をおいていけば、本当に磨きが出来なくてもです、改まる事が出来なくてもです、いよいよ私のようなものでも、助けて頂くということが分かってくるんです。皆さんも思われないですか、私のごたるとがおかげ頂いとるから。私のごたるとがおかげ頂くから、神様は汚れたら汚れたままでも、おかげを下さるんだということが分かるでしょう。そこでその心をいよいよです、私の様な者でも天地書附なら天地書附の信心を、本気で一生頂き続けて行こうという生き方。
ただ問題は私の様なもんじゃとてもおかげ頂ききるめという思う心が、おかげを頂けん事になり、言うならば三宝様を踏み付けにする事になるというのです。そして段々心に光りを頂き、段々信心の力を頂かせて頂いて、いわゆる和賀心を目指して信心させて頂いておるうちに、私の様な者が、まぁこの様にも変わり果てられるもんだろうかと言う様に、変わっていけれるということなんです。変わらなければおかげ頂かれんということじゃない、もう変わる前もう一心に縋るということになって。
もうお道の信心は天地書附にあるんだと、例えば思い込ませて頂いて、どんなになら今ここの真っすぐいその時点でですよ。私の様な者がというのでも私の様な者でも、助けて頂けれる道をここにはっきりしたという喜びなんです。そこに誰でもどんな人でも助かる事が出来る道だという、そういう意味においてです、なるほど様は偉大だな大きいなということが分かります。自分が真っすぐい生き方をしておるとか、自分は信心せんでも真面目な生き方をしておると。なら信心しよるばってん私はとてもろくそ事しよる。
狡い事したり女くせが悪かったり。そういうのは信心の光りを持たないから、自分の心の中に汚れておったり、散らかっておるのを分からんから、自分は奇麗なところに住んでおるように思うておるだけです。だから薄暗ぁい一生で終わらなきゃならんです。信心させて頂く者はね、いうならば心の中に光りが灯るようなもんです。だからそのうもういうならばもう人からも、そのろくそなかならろくそなかという、部屋の散らかっておるところが良う分かる訳です。だから場合には信心しよってと非難を受ける。
または非難をされる様な事もあるのは、自分の心の中に光りがあるから、中の汚いものが見えよるだけの事です。だから見えて来るからそれを一つずつでも、今度は取り片付けなければ居られないということになってくるんです、光りが頂けて来たら。そしていうならば一つ、二つ取り片付けられて信心のない者が見てもです、やはり信心してござるけん、きちっとしたこつと言う様なおかげを、頂いた時に初めて信心のないものも、信心のあるものもみんな信心の有り難い事が分かってくるのです。
過程においては、だから見かけばかり信心しよるからあぁしゃならん、こうしちゃならんということは決してないです。問題は自分の様な者でも助けて頂ける道にご縁を頂いたということにです、心を置き直さないといけないと同時に信心とは、本心の玉を磨くもの、信心とは日々の改まりが第一ということ。それを天地書附にかける。そのための修行ならば、一生いとわんということになってきた時にです、それこそ男に泣き男を泣かせてきたその人も、いうならば救い助けられる事になり。
真っすぐいところに置く事になったら、その瓶一杯の水が讃えられるようになって来るという、おかげを受けられるのです。お互いね、いうならば持って生まれた時から業を持ってきておる、もうそれこそ百人百様である。様々なもうそれこそ神様だけがご承知の心の状態をです、自分が信心の光りによって分かり出した時にです、もうそれこそ身の毛のよだつようなものを自分の心の中に感ずる。
昨日一昨日でしたか、あのう私がある教会の便所がこう一杯になっとるというあのうお話しをした時に、ある方が実は今日は私もお夢を頂いてから、自分方のお便所がもう汚くて小さくて、もうそれに親先生がみえるというのに、部屋はもう立派に片付いて奇麗にしとるけども、便所だけがこげな便所に入ってもらう事は出来ん、どうしようかと言いよるところに、親先生がみえたというお知らせを頂いたというんです。
それに例えばその人がです、はぁ家の息子はあげなふうじゃおかげ頂くめぇ、家の嫁御はあげな事じゃ出来んと、あのう家じゃこれじゃおかげ頂かんはずだと言う風にですね、思う心が便所をいよいよこまくしておるのであり汚くしておる訳です。例えば今日の御理解をその方が頂かれてです、はぁ家の息子は息子なりに嫁御は嫁御なりに、救い助けて頂く事を教えよう。ただ生き神金光大神様を唱える事を教えよう。
信心とは天地書附を芯にして、日々に改まって行く事、本心の玉を研いていく事に精進する事が、お道の信心だと言う事が分かりさえすれば、あぁいう嫁御でもあぁいう息子でも、いやいよいよ汚いものに気づいて来た自分自身ですらも、自分の様な者でも助かると言う事が分かったと言う時にすっきりして来るんです。そのすっきりして来ると言う事が既に心が大きくなった事であると、同時に便所がすっきりした事になる訳です。
便所も大きくなった便所もすっきりと汲み上げが出来たということになるんです。素晴らしいでしょうが。それが自分が自分の心で自分の方の便所を狭くしたり、汚くしたりいわゆる汲み上げる事も出来ないでおるということ。おかげの頂けれる一番尊い大事な心を踏み付けにしておるからなんです。もう私のごたるもんはおかげ頂っきるめと。もうだからおかげもう便所が一杯に溜っとるのと同なし事です。いや私は立派ばってん家の子供やら、息子なら嫁やらがあれじゃあ家がおかげ頂かれまい。
これは私も実際もそういうふうな思い方をしておったです。けれどもその人がです、あれはあれなりにおかげが頂けれるんだと、だから問題は南無阿弥陀仏と唱えることを教えようと親鸞が言った思うたように、私が以前金光大神天地金乃神一心に願う、おかげは和賀心にありという、この天地書附を目指して和賀心になる事を、なれる筈がないのにこれやったって一辺に。けれども和賀心を願うて行くという事が信心だと、しかも今月今日ただ今を願っていくんだと。信心とは本心の玉を研く事だと。
信心とは日々の改まりが第一だと、しかもその信心は一生この心を持ち続けていくんだと。そういう心の状態に自分がなれば、自分の様な者でも助かるんだというところに、おかげが頂けれる広い道が開けてくるんです。慢心が出るとおかげを取り外すということを私は今日はですね、自分がもう先生のごと思うておる事。自分なもう出来ておると思うておること。例えば信心のないものが私は信心はせんけど、悪い事はせんけんでとこうそういう心が慢心なんです。だからおかげ頂かんです。
今日は四十五節をですね、もうそれこそ四十五です。しじゅうごということはもう一生ということ。一生自分は業をかろうとる事になるだろうと、とても生神を目指すということが信心なんですけども、けども目指すとこはやはり生き神でなからないけんということ。目指すところはやはり天地書附に芯が置かれとかなければいけないということ。願うとするところは本心の玉を研くこと、日々の改まりが第一であるということを思い込ませて頂くということ。
そしてそういう思い込みが強うなりゃ強うなる程です、自分の様な者でもおかけが頂けれる、自分の様な者でも救い助けて下される。南無阿弥陀仏と唱えればどういう業の深いものであっても、どんなに生臭気を扱うのがその人の仕事であっても、言うならば狩人であろうが漁師であろうがです。その身そのままが救い助けれると言う訳なんです。それは南無阿弥陀仏に帰依しなければいけないということです。その南無阿弥陀仏に帰依するということは、いよいよ仏と自分が一体になる。
いうなら南無する心。いうなら自分を空しゅうしていく心。自分がだんだん影をひそめて段々自分が空しゅうなっていく時にです、仏と一体になり神と一体の世界が、そこから広がって行く様に。和賀心というのはもう神と一体になれれる心なんです。そこでです和賀心にならなければ、もう改まりきってしまわなければもう日々研ききってしまわなければ、おかげが頂けれんそれが出来ない。出来ないととても私のごたるとはおかげ頂ききるめと、その思う心がおかげ頂ききらん。
私のごたるとか家の息子があげなこっちゃ、もうおかげを神様は下さらない、家の嫁御があげな事じゃとても、家の嫁御は嫁御なりに、家の息子は息子なりに自分は自分なりに。神様が一緒に救い助けて下さるんだ、自分のようないうなら汚いつまらないお家だけれども、自分一家を神様が救い助けて下さるんだ。そのためには一家中の者がです、芯を和賀心において、日々の改まり本心の玉を研く。出来ないところを詫びていく、願って行く縋って行くというそういう生き方に。
そういう思い方になればということは、みんなが南無阿弥陀仏を唱えればということとと同じこと。天地書附を本気で唱えさせてもろうて。どうぞ今月今日ただ今を和賀心を目指させて頂く、できなくても目指させてもらう。それが金光様のご信心だと分かればです、私の様な者でも助かられるんだという心が広がっていく信心。それが私は三宝様をいよいよ大事にする事だと思います。
どうぞ。